丸本修 40数年のキャリアを誇るベーシスト/ソングライター/プロデューサーが初ソロ・アルバムを発表。伝説のグループ“AFRIKA”、M.I.D.加入、ブーツィ・コリンズとのエピソード、FUNKESTRAまでを一気に語る
■取材・文 / 原田和典
七夕の夜はファンクに限る————
そんな気持ちを新たにしてくれたのが、7月7日に東中野「弁天」で行なわれたFUNKESTRAのライブだ。バンマスを務めるのは、伝説的ファンク・バンド“AFRIKA”のメンバーでもあった丸本修。彼の奏でる図太く的確なベース・ラインにのって、AFRIKA以来の盟友である佐藤純朗(ギター)、柿崎洋一郎(キーボード)、波田野哲也(ドラムス)、whacho、米元美彦(パーカッション)が絶妙のコンビネーションを形成する。フロントを飾るのは、WODDYFUNKのトークボックス、NUDYLINEのヴォーカルだ。七夕公演では、そこにラッパーのGDX aka SHU、RHIME手裏剣、エフワンが参加。ジャズのジャム・セッションで行なわれる同一楽器のバトルよろしく、3人がラップで個性を競う場面は、鳥肌もののスリルをもたらした。
その丸本修が、ついに初ソロ・アルバム『COLLABO CLUB』をリリースした。ヴォーカルだけでもFUNKESTRAの仲間であるWODDYFUNK、NUDYLINEに加え、ZOOCO(元エスカレーターズ)、鈴木桃子(元コーザ・ノストラ)、中沢“GATS”信栄ら実力派が参加、ベースの技がバリバリ前面に出ているというよりは、サポートに回った時のベースの深み、そして卓越したメロディ・メイカー、アレンジャーとしての姿に強く焦点を当てたつくりとなっている。この新作について、これまでの豊富なキャリアについて、丸本修に話をきいた。
コロナが制作を後押しした
—— 初ソロ・アルバム『COLLABO CLUB』が発表されました。40年以上のキャリアを誇る丸本さんが、初めてご自身のアルバムを出すことになったいきさつを教えていただけますか?
丸本修 コロナ禍の前からなんとなく自分的にもここらで一区切りじゃないけど「一回やっておきたい」とは思っていましたが、「これはやっぱり絶対やっとかな」みたいになったのは、コロナになってからですね。コロナが逆に後押ししてくれたみたいな感じです。
—— ファンクに限らず、スウィング・ジャズ調、インド風あり、レゲトンありと、バラエティに富んだ内容です。
丸本 もともと僕は細野晴臣さんのフォロワーで、そこから音楽をやり始めたんです。はっぴいえんどを聴いてファンになって、ティン・パン・アレーも大好きで。あのアルバム(『キャラメル・ママ』1975年)はメンバーがそれぞれ、カントリーからファンクから、好きな音楽をやっているでしょう。細野さんは本当にいろんな音楽に取り組んでいますから、僕もその影響を受けて、沖縄のチャンプルーミュージックとか、ニューオリンズ系、インドっぽいのも全部好きになりました。いろんな要素を取り入れてアルバムにするという考えはずっと持っていましたね。
—— 共演メンバーも、ベテランから若手まで凄腕が揃っています。たとえば1曲目の「Country Jazz」では、芳賀義彦さんのスティール・ギターと、宇田大志さんのエレクトリック・ギターの組み合わせを聴くことができます。
丸本 ふたりとも音楽学校でアンサンブルを教えていたときの生徒です。快く参加してくれました。
—— そしてドラムが大御所の芳垣安洋さん。個人的にはフリージャズのイメージが強いです。
丸本 もちろんジャズもすごいですけど、サルサ・バンドでも演奏していましたし、一時期ものすごく流行ったモダンチョキチョキズのメンバーでもありました。何でもできるオールマイティーな人で、僕とは30何年前に一緒にブルース・バンドで演奏していたこともあるんです。もっともあの曲(「Country Jazz」)は、“芳垣のムダ使い”と言われましたけどね(笑)。
—— 「Lady Violetta」は、ナニワエキスプレスの岩見和彦さんと、田中れいな(元モーニング娘。)のガールズバンド“LoVendoЯ”にいた魚住有希さんの共演。二人を一緒にする発想は、いかにして浮かんだのですか?
丸本 まず「Lady Violetta」を演奏したかった。すごい好きな曲で、四人囃子のヴァージョンのプログレ寄りの感じを、ちょっとR&B風なアレンジにしてやりたいと思ったんです。それでツイン・ギター編成にしたいと思って、いろんな面白い組み合わせはないかなというところから人選を始めました。カズボン(岩見)のことは昔から知っていましたが、一緒にレコーディングしたのは今回が初めてです。今回はぜひ彼のギターを入れたくて、そうなるともうひとりのギターは全然違う毛色の人がいいなと思ったときに、教え子の魚住がパッと浮かんだ感じですね。この曲だけがカヴァーで、あとは全部僕のオリジナルです。
—— 丸本さんがオリジナルを書くときは、「こんな人に歌ってもらいたい」という感じで、宛て書きで作曲しているのでしょうか。前評判の高かった「JoJo」は、まさしくWODDYFUNKさんのトークボックスあっての、つやっぽさという気がします。
丸本 今回のアルバムに入っているオリジナル曲はアーティストありき、宛て書きですね。WODDYFUNKに関しては、「ファンクで国際的に通用するのはこいつしかいない」という気持ちをこめての起用です。
「黒人じゃなくてもできるやん」と、ファンクを実践
—— ファンクに惹かれたのは、いつ頃ですか?
丸本 中学2年くらいの時ですかね。細野さんが雑誌のディスクレビューでスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンについて書いていたのを読んで、関心を持って聴くようになりました。でも最初はよくわからなかったですよ、ベースのラリー・グラハムがどうやって弾いているのかなんて。当時の僕にはチョッパー(スラップ奏法)という概念もないから、「なんだこの音は」という感じで。ベースを始めたのは18歳ごろです。それまではギターを弾いてました。細野さんのほかに好きなベーシストは、ルイス・ジョンソンとかブーツィ・コリンズとか。
—— 1978年からは、スパングル(SPANGLE)というバンドで活動なさいますね。
丸本 浪人中に入りました。最初はインストゥルメンタルのフュージョン・バンドだったんですが、インストばかりでは面白くないと思うようになって、バイト先によく来てた、むちゃくちゃ歌のうまい高校生に歌ってもらった。それが今のCHAKAです。
—— 当時、フュージョンはものすごく新しい音楽だったと思います。イエロー・マジック・オーケストラも当初は“細野さんのフュージョン・バンド”みたいに紹介されていた記憶があります。
丸本 SPANGLEが始まった頃、カシオペアは、もういたのかな? CHAKAが(SPANGLEに)入るか入らないぐらい前の時に初めてカシオペアを見て、振り付けをしながら演奏しているのにびっくりした覚えがありますね。それで僕らもニコニコしながら全員で踊ったりしたことがあります。
—— フュージョンからファンクに向かった理由は?
丸本 フュージョンがあんまり面白くないなってなってきたんです。そのとき既に僕はPファンクとかも聴いていたんですが、「こんなファンクは日本人には無理や」って当時は思ってて。ところがトーキング・ヘッズのライブを見に行って(79年7月)、「黒人じゃなくてもできるやん」って思って、ボブ・マーリーのライブも見て(79年4月)、そこからアフリカ(AFRIKA)を作ろうと思い立ったんです。
—— ファンカデリックでいうと『アンクル・ジャム・ウォンツ・ユー』(79年)の頃ですね。
丸本 当時、ここまでPファンク(パーラメント/ファンカデリックなどジョージ・クリントン関連のプロジェクト、およびその音楽の総称)をやるバンドは多分AFRIKAのほかにいなかったと思いますよ。アルバム『FUNK CITY』(1985年)の頃になると、もうだいぶ日本語の曲が増えてポップになってますけど、最初の頃のステージはPファンク・メドレーに1時間かけたりとか。
—— キングレコードからデビューしたきっかけは?
丸本 CHAKAが抜けてPSY・Sに行って、次に(高村)光太郎をボーカルに入れて「勝負かけようぜ」って全員で東京に出たんです。で、オーディションを受けているうちに、キングレコ―ドのディレクターから「ぜひうちで出そう」という話をもらいました。
—— 『FUNK CITY』を聴いていると、ベースの音にしろ、ドラムの音にしろ、あの頃の、例えば、アフリカ・バンバータとか、フル・フォースとかの作品に通じる、うだるような熱気を感じます。
丸本 ヒップホップが出始めの頃ですからね。ニューヨークのエレクトリック・レディランド・スタジオの音作りも好きだったし、プリンスが大ヒットする前から彼の音作りにはめっちゃ影響を受けていたし。でも実質、(『FUNK CITY』は)売れなかった。尖りすぎてたね(笑)。インタビューでも、最初に「ファンクって何ですか?」って訊かれる時代だったから。
—— 爆風スランプのファンキー末吉さんもゲスト参加していますね。爆風は84年にレコード・デビューしています。
丸本 爆風スランプは「爆風銃(バップガン)」と「スーパースランプ」が一緒になってできました。ファンキー末吉が「爆風銃(バップガン)」の頃、僕と彼はヤマハのコンテスト全国大会で意気投合して、友人になりました。
—— 「バップガン」はパーラメントのアルバム『ファンケンテレキーVS.プラシーボ・シンドローム』(77年)に入っている曲ですしね。
丸本 彼らとはよくファンクの対バンをしたし、(爆風銃→爆風スランプの)江川ほーじんとツイン・ベースで演奏したこともあります。当時は米米CLUBともよく対バンしました。AFRIKAは、死んじゃったヴォーカルの光太郎以外、今もみんな現役なんですよ。(ギター:佐藤純朗、キーボード:羽毛田丈史、ドラム:田中徹、パーカッション:土居通宏)
—— 丸本さんが“ベース界のジミ・ヘンドリックス”と呼ばれていたというのは、AFRIKA時代の話ですか?
丸本 学祭とかでよくベースを燃やしたりしました(笑)。質屋とかで安いベースがいっぱい手に入ったんで、ジミヘンみたいに楽器を叩きつけて、ライターオイルをかけて火をつけて。千人ぐらい入る規模の場所でしかやらなかったけどね。臭いし、お金もかかるし。
ダンス・ミュージックの“裏方”としての活動
—— 87年には、日本初のDJ集団とされるM.I.D.に参加。日本で最初にスクラッチをしたとされるDJ モンチ と共にFM番組のマスターのMIX, 邦楽、洋楽問わず数多くのリミックスの制作、RUN D.M.C との共演等をなさいます。その後 FAST FORWARD 設立もあり・・・
丸本 M.I.D.にはDJ KRUSHとかdj hondaとか名だたるDJたちが集ってた。KRUSHが世界的にデビューして注目を浴びるきっかけとなった映画『TVO』にも俺はエンジニアで関わったね。hondaは一時、俺がM.I.D.の後に始めたFAST FORWARDにも在籍してて、当時の彼の作品のエンジニアも俺がやってた。『COLLABO CLUB』に参加しているGDX aka SHU は、昔hondaとユニットを組んでいたラッパーなんです(当時はGANXSTA D.X)。『池袋ウエストゲートパーク』という有名なドラマにも出ていますよ。
—— 社会現象的に流行した作品です。丸本さんは当時、演奏活動は?
丸本 その頃は演奏せず、ずっと裏方のスタジオ作業とかばかりでしたね。あとは作曲とか、歌手の伴奏トラックを打ち込んだり。中山美穂や光GENJIのリミックスにも関わったことがあります。
—— 以降しばらく、『ユーロビート・ファンタジー』等のシリーズ、ジョン・ロビンソン『フロム・ジュリアナ東京』など、ユーロビート~テクノ~ハウスのエンジニアやミキサーとしての活動が中心になりました。エンジニアやミキサーに関してはどういった感じで学んだんですか?
丸本 もともと好きだったし、独学で。でも、大学に行ったのも、大阪芸大の音楽工学という部署だったしね。
ブーツィ・コリンズとのエピソード
—— その後、ベーシストとしての活動に戻り、2003年には、元エスカレーターズのヴォーカリストであるZOOCOさん(本アルバムでは「リフレイン」にフィーチャー)を迎えてSOYSOULを結成します。FUNKESTRAが始まったのは、さらに後ですね。
丸本 そうです。もう10年以上続いているのかな。ファンクばっかりやれるバンドがいいなと思って始めました。吉田美奈子さんがゲストに出てくれたこともあります。
—— ステージで演奏したいという気持ちが高まってきたのでしょうか。
丸本 いや、今もどっちかいうとプロデュースがしたい(笑)。でもコンペに曲を提出するのはやめたんですよ。すごくしんどい、50曲作って1曲通るかぐらいの世界なので。
—— そのパワーを自身のアルバムに注いで、『COLLABO CLUB』が仕上がった・・・
丸本 音楽のジャンルにこだわりませんでしたが、それでもやっぱり色は同じというか、統一感がある作品を目指して作りました。「すごく夏向きの内容だ」と言われることも多くて、僕自身も夏にぴったりだと思っています。その人なりの聴き方で自由に聴いていただいて、気持ちよくなってもらえればと思います。
—— ファンク・ベースの象徴、ブーツィ・コリンズからもコメントが届きましたね。
丸本 「昔、ビル・ラズウェルと一緒にやってた音楽を思い出すよ」みたいなことも書いてくれて。ちゃんと聴いてメッセージを送ってくれたのが嬉しいですね。
—— 丸本さんとブーツィは、レコーディングの場で一緒になったことがあるとうかがいました。
丸本 そう、CHAKAのレコーディングで一緒でした(『デリシャス・ヒップ』、1997年)。俺がプロデューサーで、ブーツィの作ったトラックでCHAKAが歌う。「こんな感じで(ベースを)弾いて」って伝えて、割といろんなパターンを録るんですよ。普通は小さな音でモニター代わりに音を出すんですけど、ブーツィはフルテン(アンプのボリュームを最大にする)で弾くんですよ。あまりにもベースがやかましくて、バックトラックが聞こえなくなるぐらい。でもブーツィは構わず弾いていて、後ろの音とだんだんズレてくる(笑)。CHAKAの歌の合間に声も入れてくれて、最高でしたね。
Apple store を始め各配信会社よりリリース
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